気分の浮き沈みと読書の効能について

 朝起きて、「あ、今日は駄目かもしれない」と思うときがある。体が重く、動くのがおっくうな朝である。そんなときには昨日のことを想像してみる。なにか体を酷使するようなことをしたか、知らぬ間に緊張を溜めてしまってはいないか、単純に寝不足なのか。

 いずれも該当しないとき、そのときは気分の沈みが来たのだなと、後から分かる。こうした気分の沈みは、解消されないと認識できない気がしている。沈んでいる中で自分自身を認識することは難しい。嫌なことばかり思い出すし、ただただ沈んでいくのである。

 自分では単純な気分の浮き沈みだと思う。それが人より少し激しいだけだろう。躁鬱などではないということだ。躁鬱の方を見たことはないが、聞いているほど自分自身は鬱にも躁にもならない。うまく気分の平衡を保つことが難しい、簡単に言ってしまえば子供なのである。

 気分の沈みを解消するものはいろいろある。たいていはなんでもないものだ。徹夜したとか、音楽を聞いたとか、或いは風呂に入ったとか。何故か徹夜明けに、いままで感じたことがないくらい気分が高揚して、とにかく何をするのも幸せで楽しくすれ違う人に笑顔を振りまきたくなることもあった。音楽をなんとはなしに聞いていると、歌詞が胸に刺さって涙が出たこともある。単純に風呂に入ったら気分が変わったとか。それまでは入るだけの元気がなかったのである。

 高校生までは時々仮病を使うこともあったが普通に学校に行っていた。いつからだろうか。自分は怠けているだけなのか。変に気分が落ち込んでどうにもならないときができてしまうようになってしまった。悲しかった。が、よくよく考えてみると、それが元々の自分自身であって今まで無理していたのではと思った。大して行きたくもない学校に、なんとなく行っていた。将来のために学校へ行っていた。

 したくないことを無理にしているといつか苦しくなってしまうと考えるようになった。これは甘い考えなのだろうか。どこかで妥協して生きる必要があるとなんとなく思っている。しかし自分にはそれだけの強さがなかったし、できないことはできないのだと諦めてしまった。自分自身を感じることから遠ざかるには、僕のナルシシズムが強すぎた。様々なことをどうしても自分と切り離すことができないのである。身の回りで起きたことを自分が原因だと考えてしまいがちなのだ。

 深いよどみにいるとき、自分の過去の言動を考えて自己嫌悪に陥ってしまう。あのときなんでそうしたのか、昨日の自分は駄目だった。もはやどうしようもないことに苦しむ。4年前にひどい行いをしてしまったことを、その当人からなじられる夢をみる。現実でうまくいかないことがうまくいっている夢をみる。目覚めると現実との落差に苦しめられるのだ。未来だけを見るなんてことは僕にはできない。これは諦めではなく自分自身に備わっている性質のようなものだ。過去を見つめることでしか先に進むことができないという厄介な性分を持っているのだ感じている。

 そんな、気分が落ち込んでいるさなかにある本を読んだ。本が読める、というのは少し気分が回復しているということでもあるのだが、その本のおかげで霧が開けたのは間違いないと思う。その本は、坂口恭平『家族の哲学』である。まるで自分自身の二重写しのようだった。特に落ち込んでいるとき。自己否定が進み、なんであんなことをしたのかと後悔する。自分には未来がないということ。自分の人生は間違いだったということ。そんなことが頭に浮かぶ。

 家族の哲学を読んでいたのは、面接で東京へ向かう飛行機だった。就職活動がまるで上手くいかず、どうしようもなく落ち込んでいて、自分自身が社会から必要とされない人間だという思いを強くしていた。自分自身のしてきたことってなんだったんだろうとずっと考えていた。そのとき、自分よりも激しい浮き沈みを本を通じて目にすると、なぜか心休まるものがあったし、不思議と気分が上がった。面接ではいつも以上に自分をよく見せ、別人のように明るくなれた。その面接は上手くいった。だが、次の日はなんであんなことしてしまったんだろうと落ち込んだ。

 本を読むというのは自分自身を見出すことだと思う。僕はその面接の2日後、嘘のように気分がぱっと開けた。小説のなかの人物が自分の代わりに喜んだり悲しんだりして、その結果自分が変わったんだと思う。それを求めて僕は本を読んでいるのかもしれない。そこに映画を観ることだったり読書することの面白さが潜んでいる気がしている。