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2016年を今更振り返る

2017年も2ヶ月半が過ぎた。今更ではあるけれど2016年を振り返ってみたいと思う。その年のことはその年のうちに済ませるのがいいと思うのだけれど、僕には25年生きてきてそうしたことをした経験がないし、いわゆる新年の抱負みたいなのも考えたことがない。目標を立てて今年一年を生きようみたいなのとは全く無縁のまま、流されるように25年を生きてきた、とうっすら思う。

2016年は大変だった。精神的につらい時期が長かった。就職するのがかなり容易いと言われている理系の大学院生であるにもかかわらず、本当になかなか決まらなかった。とある企業に何とか拾ってもらえたけれど、自分が働いていけるかは心配である。ストレス耐性であったり、明るさ(陽気さとは違う)みたいなのが全然ない人間が本当に社会で働いていけるのか。

就職活動の途中で文字通り、本当の悪夢というものを知った。夢の中の自分は希望していた企業に採用されるのである。目が覚めると実際との落差に苦しくなった。夢の中で生きたい、目が覚めてほしくないと強く思ったのは初めてだったように思う。

今、就職活動を終えてみて感じるのは、自分はずっと強迫観念的に一つの決められた道を走り続けないといけないと思っていたということだ。ずっと自分の人生って何だったんだろうと思っていた。だれかの夢の中で、それが自分の見ている夢だと思って進み続けていると、いつか自分自身が破綻してしまう。そして誰かのせいにしてしまう。気を抜くと、自分自身を欺いて、何がしたいかということをきちんと考えず、社会通念みたいなものの最大公約数的な考えにしたがって生きてしまう。そうするのが一番楽だし、自分のことを考えずにすむからだ。

自分が何をしたいかというのは未だに分からないけれど、分からないなりに考えて感じていかないといけないんだなと思う。この考え自体が普通ではないのかもしれない。何がしたいか、何をしているとき自分は一番楽しいか。そういったことが知らない間に分からなくなっていた。自分のなかで肥大した偉大な考えをずっと持ち続けると、それが脳内を圧縮して、他のことをどんどん感じなくなるんだと思う。

人の目が怖くなってから、人の目を気にしないようにしようと努めてきた。でもこの行為こそが逆説的に人の目を気にすることを加速させてきたと思う。本当の意味で対人恐怖から脱するのは、まず自分自身に自信がないといけない。上で書いた、「普通ではない考え」というのもだれかと自分とを比較してしまっているのだ。このあたりは今年の目標かもしれない。

2016年は村上春樹ばかり読んでいた。この文章もどうも村上さん的な文体になってしまっているような気がする。「遠い太鼓」は2回、「ダンス・ダンス・ダンス」は3回読んだ。自分が異邦人のように感じられるときどうするかということを考えさせられた。あと、「回転木馬のデッド・ヒート」の中の「プールサイド」も胸に響いた。遠い太鼓で、村上さんは40になる前に日本を離れてみたいと思った、といったようなことを書いてられたと思う。プールサイドでは、主人公は35歳にして自分が人生の折り返し地点に来てしまったことを思う。どちらも年齢が始まりの鍵になっていると感じて、自分自身の年齢についても考えざるをえなくなった。「何歳までに何かをしないといけない」みたいなのは正直ずっとクソだと思っていた。でもいい加減そういうことを考えないといけないところに来てしまったのかもしれない。これを考えてみる年に、2017年はしてみたい。

何が起きてもそれに乗って踊り続けること。そのうち何かが開けてくる。そうするにはちゃんとした生活が必要なんだろう。曖昧な言葉だけれどきちんと生きたいと思う。